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横浜ちょっと昔のちょっといい話

横浜の市電

2003年2月22日

 この「横浜ちょっと昔のちょっと良い話」の第1回を書いた時、「市電の話は別の機会にゆずるとして、今回は横浜市営の電車、トロリーバスと地下鉄の話です」と書きながら、それ以降5年間も市電の記事を書いていないことに気が付きました。今日は市電の話をしましょう。

 横浜市電ができたのは明治37年のこと。大正10年には横浜市が買収して「市電」になりました。戦後は路線も拡大して、一番多いときは50kmほどの路線が営業していました。

 私はかろうじて市電に乗った記憶がある世代です。小学校の低学年だったころ、金沢の自宅から西区の親戚の家に行くのに市電を利用していました。バス(当時は金沢方面から磯子を経由して横浜駅東口まで行っていました)に乗り、市大の病院がある浦舟町で市電の9系統に乗換です。時間的にも横浜まで京急で出た方が速いのになぜそういう経路で行ったのかは覚えていませんが、おそらく京急の駅まで出るより歩く距離や乗換が便利だったからでしょうか。9系統は浜松町(と言っても東京ではありません。保土ヶ谷の近くです)を過ぎると国鉄をまたぐ陸橋を渡ります。急勾配の上に急カーブ、上まで上がると道路の中央を通る市電からは陸橋の下は見えないので、まるで道路が浮かんでいるようでした。

 その頃の市電は20円。確かバスは30円だったように記憶しています。開港記念日の頃に乗る機会が多かったのですが、、その時期は市電の切符が開港記念乗車券でした。市電にはいろいろな種類の電車が走っていましたが、系統毎にある程度形式が決まっていたようです。9系統は横浜や桜木町の繁華街を通らないか、あるいは急坂の陸橋を渡るからなのか、前と後ろにドアのある、それほど大きくない電車でした。

 時々、別のところで、真中にもドアがある大型車を見かけることがありましたが、乗った記憶がありません。市電の電停名は、安全地帯に小さなポールがあり、行き先が書いてありました。道路脇にはそれとは別に大きな電停名の看板がありました。初電と終電の時刻はありましが、時刻表というのは無かったように思います。待っているとじきに電車がきたのですが、実際は何分間隔だったのでしょうか。

 市電の停留所は当然道路の真中にあります。停留所は安全地帯になっていました。ただ、私の記憶の中では、安全地帯が無く、単に道路に白線を引いただけの停留所があったのですが、本当だったのでしょうか。その頃はまだ車も多くなく、特に危険だったという記憶はありません。でも、自動車の乱暴な運転をする人はいました。小さいときの記憶ですが、乗っていた電車に横を走っていた車が接触するという事故に遭ったことがあります。軽い接触で別に何とも無かったのですが、電車が故障したか、脱線したかで動かなくなってしまったので、そこで降りてしまいました。目的地に近かったのでそこから歩いたような記憶があります。

 横浜は関内のあたりは平坦ですが、ちょっと離れるとちょっとした丘が多い町です。その中でも市電の3系統は2つの丘を通る路線でした。今、市バスの103系統に乗るとほぼ同じコースをたどることが出来ます。この系統は市電3系統が廃止された時の代替バスとして出来たものです。市電3系統は生麦からですが、今のバスは横浜駅が起点で、戸部から山を越えて野毛山を通って日ノ出町駅前に行きます。この道はもともと横浜道と呼ばれ、古くから神奈川の宿と横浜を結ぶ道でした。この道は比較的昔の雰囲気を残している道です。その後、伊勢佐木町を横切り長者町をとおります。今のバスは大通公園にある伊勢佐木長者町駅の上をとおりますが、市電が走っている頃はここの下は吉田川で、千秋橋を渡って行きました。石川町五丁目の先から、更に丘を上り、昔から変わらない美しいアーチの打越橋をくぐって突き当たりを右折するとすぐ市電の終点の山元町です。今のバスは更に根岸の森林公園を経由して根岸台まで行きます。山元町は坂の上の市電の終点で、今でも道路に沿って商店が連なっています。最初にバスで通った時、駅があるわけでもないのに、いきなり商店街があったのが不思議に思えましたが、実は市電のターミナルだったわけです。山元町手前の打越橋のあたりや、野毛のちょっと上のあたりは今でも切通しに石畳が見られ、昔の面影を残しています。

 青地に、白い線路とその上に自動車の絵が書いてある道路標識がありました。今では見かけることの無い標識です。これは、電車の軌道内に自動車が通ってよいという標識で、横浜ではいたるところにありました。基本的に市電の軌道内は自動車は通ってはいけないのですが、だんだんと増えてきた自動車が渋滞しないように、横浜では多くのところで、それを許可してしまったのです。このことにより、市電が時間どおり走ることが出来なくなり、また、ハンドルで横に動ける自動車と違い、危険があっても避けることができない市電は嫌われ、次第に廃止されていくのです。昭和41年から廃止が始まり、昭和47年、地下鉄が開通する少し前に横浜から市電は姿を消してしました。

 市電の車庫は生麦と滝頭にありました。両方とも今はバスの車庫になっていますが滝頭車庫には横浜市電保存館があり、何台もの市電が保存され、乗ることが出来ます。公園などに保存されているのと異なり、有料の博物館なので、手入れが行き届いており、今でも走れそうな感じがします。先ごろリニューアルオープンしました。休日でもそれほど見学者は多くありませんが、それだけに、のんびりと昔の市電を見たり、乗ったりすることが出来ます。館内にはその他に鉄道模型の大きなジオラマや、昔の電車・汽車の模型、運転が体験できるシミュレーターなどがあります。なつかしい時代に会えるかもしれません。

 さて、5年間にわたり、お伝えしてきたこの「横浜ちょっと昔のちょっと良い話」は今回を持ちまして終了とさせていただきます。長い間ありがとうございました。横浜は今でもどんどん変わっています。でも、単に古いものがなくなってしまうのではなく、形を変えながら生きているような気がします。氷川丸、日本丸は、もう航海することはありませんが、海の素晴らしさを伝えつづけています。昔、船を作っていたドックは今はコンサートも出来る広場になっていますし、単なる倉庫だった赤レンガ倉庫は新たな情報発信の地になりました。ほんの一時期しか使われずに、山下公園の景観を邪魔していた臨港鉄道は一部は撤去されましたが、一部は山下公園から赤レンガ倉庫、さらに桜木町までの素敵な散歩道になっていますし、重厚な裁判所は建て替えられましたが、以前と同じデザインの部分が残って、雰囲気を出しています。来年にはみなとみらい21線も開業し、市電にあった「馬車道」という駅名が復活します。あと何年かしたら、東急桜木町の駅のあたりも気持ちのよい散歩道になるでしょう。昔からの「時」が、今につながっています。横浜は昔の面影を残しつつ、新しく、よりオシャレな街に、これからも変わっていくでしょう。

 それでは、またどこかでお会いする時まで。

参考文献:長谷川弘和「横浜市電の時代」大正出版
     天野洋一&武相高校鉄道研究同好会
          「懐かしの横浜市電−あの頃の市電通りへ」竹内書店新社

アルバム

野毛山の切通し 野毛山の切通し。かつてはこの坂を市電が走っていました。切通しの石畳は当時の面影を残しています。
(2003年5月1日撮影)
市電保存館の市電 市電保存館にある市電。
(1997年4月19日撮影)
市電保存館の市電 同じく市電保存館の市電。こちらのほうが古い形式です。
(1997年4月19日撮影)
市電保存館の地下鉄シミュレータ 市電保存館の地下鉄シミュレータ。
(2002年2月2日撮影)

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(c) 2003 Masanori Kono