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横浜ちょっと昔のちょっといい話

二つの埋め立て〜根岸と金沢

1998年8月7日

 横浜は、その名前が表すとおり、浜から生まれた町です。そして、横浜の町の歴史は埋め立ての歴史そのものです。開港してからすぐ居留区になった、今の関内、山下町付近や、最初に鉄道が通った神奈川から桜木町にかけてなど、明治初期の頃から海岸線は変貌し続けています。今回は、戦後の高度成長期以降に埋め立てられた、根岸湾・金沢地先の2つの埋め立てについてお話しましょう。

 根岸から杉田にかけての根岸湾の埋め立ては1959年から1971年にかけて行われました。富岡から野島の手前にかけての金沢地先埋め立ては1970年から1986年です。この微妙な時代の差が、2つの埋め立てに対する大きな差になっていきます。地図でこれらの2つの埋め立て地区を見てみると大きな違いに気づきます。根岸は、大企業が進出しており、埋め立ての1区画も非常に大きくなっています。そして、海の縁までそれらの工場があり、一般の人は海に近寄ることが出来ません。それに対して、金沢の場合は、住宅、工業団地、病院、八景島や海の公園など、いろいろな用途に使われているし、海の公園以外でも、海沿いの散歩路は散歩や釣りをする人でいっぱいです。

 根岸の埋め立ての目的は、産業の振興です。産業を誘致すれば、その税収や雇用が確保出来て、横浜市が繁栄すると考えられました。遠浅で地盤が良く、埋め立てに適している根岸湾は明治時代からいくつか埋め立て計画がありましが、いずれも実施されることはありませんでした。しかし、1956年頃から臨海工業地帯としての横浜市の計画が実行されたのです。この埋め立ては単純に言えば、埋め立てをし、それを企業に分譲したという形になります。そのため、基本的には企業に売却後の敷地内の利用方法は購入した企業に任せています。

 それに対して、金沢の埋め立ては、都市計画の一貫として行われました。一番の目的は、市内に点在している中小企業の移転です。当時、横浜では住宅地の中に小さな工場が点在しており、住宅環境をよくするためには、それらの工場の移転が必要でした。現在のみなとみらい21地区にあった、三菱重工の造船所の移転計画もありましたが、こちらのほうは、紆余曲折があり、結局実施されませんでした。また、住宅建設については市がアーバンデザインを導入し、住宅建設事業者に対して大枠を決め、まちづくりを行いました。それが並木の町並みです。最初から公共用地として、公園部分が計画されており、もとの海岸線を生かした公園、住宅地と工業団地間のグリーンベルト、海の公園等の緑地計画がされていました。

 海の公園の最初の計画では、島部がもっと海岸に近いところにあり、海岸と島のあいだはちょうどボード遊びが出来る程度の運河のようなものが考えられていましたが、あまり狭い水路では水質汚濁の危険性があるということから、砂浜を広げ、島を岸から離しました。それが現在の海の公園と八景島です。それまでの人工海浜は、堤防の外に砂浜を設けたのに対して、海の公園は後方緑地帯から砂浜まで勾配を設計して作ってあります。まだ貝をまく前の年から、自然のアオヤギが発生していました。

 出来れば自然のままで海岸を残したいとは思います。しかし、あの高度成長期の時代にあって、自然の海岸線をそのままで残すことは困難なことだったと思います。それでも、都市計画に基づいて実行された金沢の埋め立てや、最近のみなとみらい21地区などのように、水際が市民の共有財産としていつまでもありつづけて欲しいと願います。

参考文献:「横浜の埋立」(横浜市港湾局臨海開発部 1992)

追記

2003年9月27日

海の公園の最初の計画は都市計画図では良く見るのですが、昭和55年発行の市販の地図にもそのような計画が書いてあるのを発見しました。下の図です。海の公園と島部の間がほとんど運河のような幅しかないことがわかります。(写真の横線は2ページをスキャンしたときの影です)

海の公園の旧計画の地図


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(c) 2003 Masanori Kono