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横浜ちょっと昔のちょっといい話

横浜スタジアム物語

1998年9月26日

 今年のプロ野球も大詰め、セ・リーグでは横浜ベイスターズにマジックが点灯し優勝もいよいよ秒読みです。横浜ベイスターズと言えば、昔の大洋ホエールズ、マルハのマークも鮮やかな鯨軍団でした。私が初めて野球を見たのも川崎球場の大洋巨人戦。川崎球場と言えば、球場の右翼スタンドが道路で削られていて、一部とても狭くなっていて、最上段のフェンスも低く、王選手が場外ホームランを打たないようにと、そこに金網があったという、不思議な球場でした。大洋で左門豊作が活躍していた時代です。「プロ野球年鑑」で左門豊作を調べないように(^_^) おっと、ここは横浜の話でしたね。それでは初めての日本シリーズが行われる(だろう、もしくは、かも知れない)横浜スタジアムの物語です。この場所にはたくさんの「初めて」があります。

 最初の「初めて」は横浜スタジアムのある公園についてです。この横浜公園は、日本初の一般の人が使える洋式公園として、明治9年に開園しました。そもそもそれまでは日本に庭園はあっても、広々とした公園は無かったのです。横浜に住んでいた外国人がここでクリケットなどに興じていたのですが、日本人も使うようになりました。単に形が洋式というだけでなく、使われ方も洋式だったのですね。

 二番目の「初めて」は初の国際野球試合です。明治29年に、横浜公園で行われました。一高(今の東大)と外国人チームとの試合は29対2で一高が勝ちました。悔しがった外国人チームはちょうど港に来ていた船員たちを入れてリターンマッチをしましたが、それも一高が勝ちました。

 昭和3年、関東大震災の復興事業として、この公園内に音楽堂と野球場ができました。当時としては日本有数の本格的な野球場でした。しかし、第二次世界大戦で、横浜の多くの部分は接収されてしまいます。横浜公園も例外ではありませんでした。この球場も接収され、「ゲーリック球場」と名づけられました。この時にナイター用の照明が付けられています。これが第三の「初めて」、日本初のナイター設備です。そして、接収中の球場を借りて昭和23年8月17日にプロ野球初のナイター中日対巨人が行われ、3対2で中日が勝ちました。ちなみに後楽園球場に照明がつけられたのがそれから2年後、甲子園球場はずいぶん遅く昭和31年になってようやく照明がつけられました。このようにこの地は野球にからんだ「初めて」がたくさんありました。

 さて、接収が解除され、「平和球場」と名づけられた球場は、しばらく高校野球の予選にも使われていましたが、次第に老朽化し、昭和40年代になると、アマチュア用に保土ヶ谷球場ができ、この球場は使われなくなってきました。さて、設立当時は下関の球団だった大洋ホエールズは、関東進出を考えましたが、既に東京都には巨人と国鉄がいたので神奈川県をフランチャイズにしました。横浜を本拠地にしたかったのですが、老朽化した平和球場ではそれもかなわず、設備の整っている川崎球場に移転したのです。当時の飛鳥田横浜市長も野球の誘致には熱心でしたが、平和球場を建て替えない限りは願いもかないません。しかし、横浜公園に大きな球場を作るためには、野外音楽堂など、他の設備をなくしたり、なにより、緑の公園の部分を縮小しなければならないので、賛否両論がありました。でも、野球に関してこれだけいろいろなゆかりがある地ですから、ここに新しい球場を作ることになったのです。

 そうは言っても横浜市にはお金がないので、市営の球場を作る訳には行きません。会社を作ってお金を集めましたが、建設費の半分近い20億円というお金を広く市民から出資して貰ったことにこの会社の特徴があります。250万円で株主になると、オーナー席をもらえるという形で、大企業からでなく、800人もの株主を集めました。また、建物の制限の問題もありました。横浜スタジアムは外からみると、観客席が斜めに張出していて、まるですりばちのような形をしています。この場所は公園用地なので、建てられる建物の大きさに制限があり、普通に立てたら3万人収容のスタジアムを作ることが出来ません。ところが、建物の大きさっていうのは接地面積で測るので、下を絞って面積の制限ををクリアーしたというわけです。また、都市の中の球場なので、なるべくナイターの照明が外に影響を与えないようにということで、あの独特なY字形の照明灯ができました。また、シーズンオフには他のスポーツもできるように、観客席の一部を可動式にしたり、マウンドを昇降できるようにしたりというアイデアも実現されています。いろいろな問題を解決して78年に横浜スタジアムは完成し、それと同時に川崎から大洋が横浜大洋ホエールズとしてやってきたのです。

 それから20年後、「初めて」の日本シリーズが行われる(かもしれない)のです。いやぁ、「20世紀中の優勝はない」と言われた横浜ベイスターズ、優勝できると良いですね。

参考文献:田村明著 都市ヨコハマ物語

追記

2003年5月11日

 横浜ベイスターズはこの年(1998年)に38年ぶりに日本一になりました。

 また、文中に出てくる川崎球場ですが、2000年3月で歴史に幕を閉じました。小さい頃に何度か行った球場ですが、最後の試合(横浜対ロッテのオープン戦)を見ることが出来ました。

アルバム

ハマの大魔神社 ハマの大魔神社。横浜駅ポルタ地下(そごう前)にありました。もちろん現マリナーズの佐々木投手です。
(2003年5月1日撮影)
川崎球場のライトスタンド 川崎球場のライトスタンドです。道に面しているので、一部は観客席が狭くなっていて、その上にはフェンスがあります。この写真は川崎球場の最後の試合です。
(2000年3月26日撮影)
横浜スタジアム 横浜スタジアム正面。スタンドに向いてすり鉢のように傾斜しています。
(2003年5月1日撮影)
横浜スタジアムの照明塔 外野側。Y字の照明塔はスタジアムの外への照明の漏れを減らす効果があります。
(2003年5月1日撮影)
スタンド座席案内図 可動式のスタンド。アメリカンフットボールを行うことが出来ます。
(2003年5月1日撮影)

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(c) 2003 Masanori Kono