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横浜ちょっと昔のちょっといい話

たかが広報、されど広報

1999年5月29日

 横浜にお住まいの方なら、毎月1回「広報よこはま」が配布されているので、ご覧になっている人も多いでしょう。駅や区役所にもおいてありますし、最近では横浜市のホームページで見たり、メールの配信(特に横浜市民に限定していないようです)も受けられます。広報ですから、市の催しや施設からのお知らせ、募集など、細かい記事が載っています。でも、それだけでなく、市の大きな事業や方針についても概要が書かれています。

 今年、平成11年の2月で広報は600号。毎月発行だから12で割ると50年間。そう、戦後まもなくの昭和24年の3月に広報(当時は「横濱弘報」という名前でした)が誕生しました。今回は昔の広報をひも解いて、横浜の戦後をご紹介しようと思います。

 戦争が終わってGHQがいろいろな方針を打ち出してきました。その一つに、地方も政治の宣伝をしなさいという指導があり、そこで広報が出来たのです。その頃の日本にはPR(パブリックリレーションズ)の訳として「広報」と言う言葉が辞書になく、「弘報」という言葉を使いました。まだ、全戸配布するだけの予算がなく、広報委員を中心にわずか配布されただけでした。第一号の目次をみると市役所の各局のお知らせが目立ちます。「納税率66%」等という記事もあり、まだまだ、経済も混乱していたようです。この時代は横浜の多くの部分は接収されていました。建物だけでなく、港も接収されていましたが、接収解除後も港湾の管理は運輸通信省が行っていました。

 昭和26年6月の弘報には「港の民主化ここになる」と題して、港湾管理権が市に戻ってきたことを知らせています。翌年には「ミス観光横浜」の初代5名が掲載されています。昭和28年には「弘報よこはま」と改題し、5月号では開港95年のみなと祭の行事が紹介されています。この年から国際仮装行列が行われていますがそれも紹介されています。当時は6月2日の開港記念日に行われていたようです。

 昭和30年代に入ると、戦後の混乱も終わり、新しい時代に入ってきました。タイトルも今と同じ「広報よこはま」になりました。昭和30年は神奈川国体開催です。第10回の国体は全国の各地方を回ったのち、二順目になり、兵庫県と競って神奈川県が開催県になりました。広報では国体の歴史も詳しく載っています。聖火リレーの最終ランナーは当時71才の平沼亮三市長でした。三ッ沢陸上競技場をメーンに市内では9種目が行われています。「芸術」なんて言う種目があるのですが、何をしたのでしょうかね。

 さて、横浜では「市長への手紙」と言う制度がありますが、これは「市長に手紙を出す週間」として昭和31年から開始されたもので、広報でも市長との懇談の特集が組まれています。「横浜駅周辺の発展策を図れ」「山下公園を市民に開放せよ」(当時はまだ接収されていました)「二部授業の解消を」「文化都市に恥じぬ舗装路を」等、いろいろな要望が出されていました。内容も歴史を感じますね。またこの年から「広報よこはま」は全戸配布になりました。昭和33年には28万世帯に配布されています。この頃「カとハエをなくす運動」が行われていましたが、昭和32年には草野心平の「蚊とハエのいない生活の歌」に振り付けの指導が紹介されています。これは全国で展開された運動とのことです。一体どんな踊りなのでしょう。

 昭和33年は開港100年記念の記念式典が横浜平和球場で行われました。第二部では美空ひばり、草笛光子、渡辺はま子など、横浜生まれの人によるアトラクションが有りました。また、翌年には現在の市庁舎が落成しました。昭和36年2月の広報では「全市一斉ねずみ退治」のお知らせがあり、この期間に捕まえたねずみは保健所で抽選券と引き換えてくれるそうです。しかもその場で当たる抽選(洗濯石鹸、鉛筆、マッチ)と後で行われる抽選のダブルチャンス。

 このころから高度成長期に入り、すごい勢いで世の中が変っていきます。37年には「面目一新の根岸湾」と称してトップ記事に根岸湾の埋め立ての一期工事の完成が告知されていますが、その中に「これらの埋め立て地に工場が立ち並ぶと年間工業生産額1800億円以上のあげ、横浜の経済に大きく寄与することになります」という説明があります。埋め立ては経済の発展のためだったのです。39年に根岸線の開通、42年には市大病院(現在のではなく、浦舟町にある病院)の新館完成といったニュースがあります。細かく広報をみると、この年から横浜の市内局番が3桁になったのがわかります。

41年からは1ページの各区版が登場し、43年からは題字デザインが現在のものと同じになり、現在の形式にかなり近くなっています。この頃から柳原良平氏による1コママンガ「まんが焦点」が広報に掲載されるようになりました。

 駆け足で昭和20年代から40年代の広報を見てみました。カラー刷りの今の広報ほど立派ではありませんが、その時々の市政が時には誇らしげに書かれていたり、その時々の世相を反映していたりして、毎月数ページながら、歴史の重みを感じる資料になっています。

 皆さんも、広報を見終わったらとっておくと良い記録になるかもしれませんね。

参考文献:横浜市編「広報よこはまに見る戦後の横浜市政」


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(c) 2003 Masanori Kono