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横浜ちょっと昔のちょっといい話

氷川丸−−数奇な運命

1999年7月31日

 最近は「ヨコハマ」の観光スポットも、みなとみらい地区にシフトしてきました。みなとみらい地区の船のシンボルはご存知、日本丸です。年に何回かの総帆展帆では、優雅な姿を見せてくれます。それに対して、山下公園にある氷川丸は、40年近くの歳月、どっしりと勇壮な姿を多くの観光客に見せています。この氷川丸、誕生から数奇な運命を経て、現在の山下公園に係留されるようになりました。今回は氷川丸のお話です。

 氷川丸の誕生は昭和5年のことです。その頃太平洋路線は日本とサンフランシスコ、シアトルを結ぶ路線がありましたが、アメリカの船会社が高性能の船を投入しているのに対して、日本には老朽化した船しかなく、太刀打ちできませんでした。そして、日本も太平洋航路を重視することになり、17,000トン級の客船3隻(浅間丸、龍田丸、秩父丸)、12,000トン級の貨客船3隻(氷川丸、日枝丸、平安丸)を作りました。3隻の貨客船はシアトル航路に就航することになります。

 氷川丸は秩父丸、日枝丸とともに横浜船渠(せんきょ)でつくられました。今のみなとみらいの場所にあった三菱の造船所の前身です。当時横浜船渠では客船を作った経験がなく、大変な苦労をしました。内装はフランスのシモン商会でしたが日本から塗装工を派遣、その技術を習得し、後のメインテナンスは日本で行いました。また、同じ太平洋航路でもサンフランシスコ航路と異なり、シアトル航路は海が荒れるので、頑丈につくられました。

 氷川丸の初航海は昭和5年5月のことです。客室は1等から3等まで有りましたが、1等のサービスは世界有数でした。特に食事は大評判で、そのためにわざわざ氷川丸を選んだ乗客もいたとのことです。日本の船らしく、時にはスキヤキパーティーも行い大好評を博しました。また、貨客船ですので、さまざまな荷物を積みました。日本からはアメリカからは小麦、牛皮などが主でした。変わった積み荷としては日本からの金魚やアメリカから生きたウサギも積みました。船員は大事な積み荷のウサギの世話も仕事でした。

 喜劇王チャップリンも氷川丸に乗船しました。昭和7年6月のことです。日本からアメリカへの航路でチャップリンがどの船に乗るかの誘致活動は熾烈でしたが、氷川丸に乗ることに決まったのは、チャップリンが天ぷら好きなのを知って、船のコックを当時天ぷらで有名な日本橋「花長」に勉強にいかせ、船内でお座敷天ぷらを出せるようになったということからです。素顔のチャップリンは孤独を好む人物で、食事もすべて自分の船室に運ばせました。

 華やかなシアトル航路でしたが、戦争の色彩が強くなった昭和16年、中止されました。戦前の最後の航海は6月から7月にかけてでした。その後、政府に徴用された氷川丸は10月から11月にかけて、引き揚げ船としてシアトルに航海しました。そして、戦争が始まりました。

 氷川丸は海軍に徴用され、病院船になりました。病院船とは傷病者、難船者を救助するための船で、国際法で戦時中でも安全が保証されていました。当然、軍事目的の使用は禁止されています。病院船である事を示すために、氷川丸は白い船体に緑のラインと赤十字マークをつけました。戦争中は灯火管制のもと夜間航海を行うのが普通ですが、氷川丸は夜間でも赤十字マークを照らして堂々と航海を行いました。病院船であることが分かった方が安全なのです。

 病院船としての氷川丸の主な航行先はトラック諸島、ラバウルでした。日本からはほぼ真南の赤道付近の島です。一回の航海は1ヶ月弱のことが多く、戦争で負傷したり病気になった人たちを収容して、日本に戻るといった作業を何度も繰り返しました。病院船として、28回の航海で3万人もの患者を日本に運びました。

 ところで、氷川丸と同じ時期に作られたほかの客船、貨客船はどうなったでしょうか。平安丸は潜水母艦になっていましたが、昭和19年2月に空爆に会い沈没しました。日枝丸も特設運送船になっていましたが、18年11月撃沈されています。サンフランシスコ航路に作られた客船も3隻とも沈没しています。また、病院船とわかっていても攻撃を受ける船もありました。陸軍の病院船ぶえのすあいれす丸はB24の爆撃を受け、沈没しました。病院船とは言え戦時下の航海を無事に終えた氷川丸は強運の持ち主でした。

 戦争が終わった後、氷川丸は日本に残った船の中で最大級の船でした。氷川丸に与えられた次の仕事は外地に残された人たちを戻す、引き揚げ船としての業務でした。引き揚げ船として11回の航海後、昭和24年7月まで、北海道と横浜の間の航路についていました。その後アジアとの航海をしばらく続けていましたが、翌年、米国が日本船の寄港を許可したので、早速ポートランドへの航海を行い、その後はニューヨーク、ヨーロッパなどの航海を行いました。

 昭和28年、いよいよシアトル航路が復活しました。シアトル航路は戦前同様貨客船として、1ヶ月に1回の割での航海でした。当時、日本とアメリカの間に定期航路として必要なくらいの旅客がいたのでしょうか。実は、日本とアメリカの交換留学生のために使われたのです。フルブライト交換留学というのは、アメリカと各国間の交流のための留学制度で留学生には旅費、滞在費が支給されます。多くは大学教授や若手社員が1年間のアメリカでの留学に旅立ちました。実に最終航海まで2500人ものフルブライト留学生が氷川丸を使って日米を往復しました。

 このくらいの規模の船だと15年くらいで寿命になるのですが、すでに30年、しかも過酷な航海をしつづけた氷川丸は昭和35年ついに引退することになりました。その後、解体されるか係留されるか議論されましたが、神奈川県や横浜市の強い陳情で、氷川丸は山下公園に係留、昭和36年から公開されています。公開後40年近く経ちますが、まだまだ現役で多くの人にその勇壮な姿を見せています。

参考文献:高橋茂著「氷川丸物語」かまくら春秋社

氷川丸とマリンタワーのHome Page: http://www.hmk.co.jp/

アルバム

氷川丸全景 氷川丸全景。山下公園からこのように見ることが出来ます。
(1999年9月1日撮影)
マリンタワーから撮影した氷川丸 マリンタワーから撮影した氷川丸
(2001年6月18日撮影)

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(c) 2003 Masanori Kono