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横浜ちょっと昔のちょっといい話

横浜の地名

2000年1月29日

 今回は横浜の地名について見ていきましょう。「横浜」というのも考えてみると変わった地名ですね。一番古い文献では1442年の文献に横浜の地名が記されています。本牧から現在の山下町のあたりに砂州のような長い浜があり、ここが横浜の村でした。一説には浜の横の村という意味とも言われています。一方、「神奈川」という地名は東海道の宿場町であり、現在の神奈川区のあたりです。開港のときに神奈川を開港することになっていましたが、東海道筋からなるべく離れた場所に港を置きたいという幕府の思惑があり、横浜村が港になりました。このときに「横浜」は小さな村の名前から世界に広がる名前になったのです。

 開港当時には、外国人の間で使われていた英語のついた地名もありました。根岸湾は、その美しさから、ミシシッピ湾と呼ばれていました。ペリーが測量して作成した地図には、そのように記述されています。

 いつの時代でもそうですが、新しくできた町名は、工夫をこらしています。平成7年に「白帆」という地名ができたのですが、どこだかご存知でしょうか。新杉田からシーサイドラインで2つめ、鳥浜の近く、そう、ベイサイドマリーナの町名です。ヨットのイメージのある名前ですね。横浜は開港以来新しくできた町が多くあります。それらの町にも素敵な名前がついています。「羽衣町」「尾上町」「相生町」など、謡曲から取られた町名や「黄金町」「寿町」「不老町」「扇町」「長者町」「住吉町」など、おめでたい名称を持ったものがあります。これらは明治になる前後に埋め立てられた土地であり、そのときにこれらの佳名がつけられたのです。また、南区の吉田新田を昭和初期に町名整理したときにも、百人一首から「浦舟町」「白妙町」「高根町」ができました。このように、新しい町がいくつも同時に作られる際には、関連のある町名にすることが多くあります。

 横浜で戦前から行われていた埋め立て事業でも、同時に多くの町が登場しました。戦前の大規模埋め立てでは、やはりおめでたい名前がつけられています。昭和12年に鶴見区から神奈川区にかけて埋め立てられた場所には大黒、宝、恵比須など、七福神にちなんだ名前がつけられています。また、末広町や、扇島も同じころ誕生した埋め立て地の地名ですが、こちらはこの地域の埋め立てに尽力した浅野総一郎の家紋からつけられています。また、昭和55年頃の金沢埋めてでは福浦、幸浦という地名がつけられました。もっとも昭和30年代から40年代の根岸の埋め立てでは新磯子町、新森町、新中原町、新杉田町というように、沿岸の町名にただ「新」をつけただけの地名が誕生したのは時代のせいでしょうか。

 人の名前が地名になることも、よく行われていますが、多くの場合、その場所を開発した人の名前がついています。江戸時代中期ではたとえば新井忠兵衛が完成させた新井新田にちなむ新井町(保土ヶ谷区)や金沢区の泥亀新田にちなむ泥亀一、二丁目があります。保土ヶ谷区に権太坂というところがあります。ここは昔一番坂と呼ばれていましたが旅人がそこにいた農人に場所の名前を尋ねたところ、耳が遠いので、名前を聞かれたと思い「権太」と答えたので、権太坂と呼ばれたという説が残っています。しかし、実際はここを開いた藤田權左衛門にちなんで權左坂と名づけたのが変化したということです。開港の頃以降の人物の名前がついた地名としては高島嘉右衛門が開発した高島町が上げられます。高島嘉右衛門は開港時代の横浜の実業家で、ガス、水道、電気などの事業を行いました。また、工期や費用で皆がしり込みした鉄道用地の埋め立て事業を成功させ、鉄道に使われた土地以外は彼の土地になりました。それが現在の高島一、二丁目付近です。神奈川区の高島台は高島の屋敷があたったところの地名です。また、鶴見に埋め立て地にある「安善町」という地名はこの場所の埋め立ての資金を出した大正の実業家安田善次郎にちなんでつけられました。人名のついた地名では一番現代に近い人でしょう。伊勢佐木町という名前は2つの名前が合わさってできたことはすぐに思いつきますね。伊勢さんと佐々木さんとかかな、という組み合わせの説があったのですが、実は伊勢佐木町の道路造成の費用を出した伊勢屋中村治郎兵衛、佐川儀右衛門、佐々木新五郎から「伊勢」「佐」「木」をとったのです。実は3人の名前をあわせたものでした。

 ところで、中華街の入り口のところに加賀町警察署があります。何で横浜に加賀があるのでしょうか。日本大通から元町寄りの外国人居留地は今ではすべて山下町という名称ですが、明治12年に加賀町をはじめ、日本中の多くの町名がつけられました。これらの町名は、山下町の中で、通りの名前としてしばらく残っていました。今の長安道は加賀町、石川町駅から中華街に行く、西門通りから中華街大通りは前橋町、一本隣の関帝廟通りは小田原町という通りの名前がつけられています。また、横浜公園から開港広場に至る道は薩摩町です。通りの名前としてはなくなってしまいましたが、ふとしたところに名残が残っています。

 開港以前の古くからの地名はむしろ横浜の港北区や旭区などの郊外部に多く見られます。たとえば港北区の師岡町や、新羽町は15世紀の文献にも登場する地名です。また、金沢区にも鎌倉時代から伝わる地名が多く残っています。

 最近では「八景島」や「みなとみらい」など、新しい名前の町ができたり、逆に平成6年に誕生した「都筑区」など、古い地名が行政区名に復活したりしています。最初は慣れなくても、その地域に根付いた地名は時間とともによい響きになっていくことでしょう。

参考文献
 横浜市市民局 「横浜の町名」
 横浜開港資料館「横浜もののはじめ考」

アルバム

横浜なのに薩摩町 横浜なのに薩摩町。
(2003年5月1日撮影)
横浜なのに加賀町警察署 横浜なのに加賀町警察署。
(2003年5月1日撮影)
昔の地図 Japan GazetteによるThe Japan Directory 1889の一部。薩摩町のバス停、加賀町警察署が、この時代の通りの名前に一致しているのが分かります。左側が中華街、右上は横浜公園です。
(「横浜もののはじめ考」より引用)

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(c) 2003 Masanori Kono