←前へ 次へ→ 目次へ↑

横浜ちょっと昔のちょっといい話

横浜のスカーフ

2000年9月30日

 「地場産業」という言葉がありますね。小学校の時にいろいろ習ったと思います。燕市のスプーンとか、鯖江市のメガネとか。横浜の地場産業として知る人ぞ知るのがスカーフです。横浜は国内でも有数のスカーフの産地です。今回は、スカーフの歴史を見ていきましょう。

 横浜の開港当時から生糸は日本の輸出の主要品目でしたが、加工品である絹は最初はあまり輸出されていませんでした。明治6年(1873年)のウィーン万国博覧会では日本の袱紗、団扇などの絹織物を出品しました。このときに国費でウィーンに行ったのが椎野正兵衛です。椎野は絹織物を外国に紹介するだけでなく、ヨーロッパの技術を習得してきました。そしてそれから2年後にアメリカにハンカチを輸出したのが日本からの絹ハンカチの輸出の第一号です。このころは、まだ、白地か無地の染物でした。最初の柄ものは椎野正兵衛商店が明治18年にアメリカに輸出したものが最初ということですが、詳細はわかっていません。明治23年にはフランス人のメニールが木版をつかって染めたハンカチを作らせ、これが評判になったため、一躍染色織物の輸出が増えてきました。

 横浜のスカーフは複雑な分業で行われています。これは輸出が始まったころからの歴史によるものです。その頃、絹物の輸出の中心にいたのは製造業者である「ハンカチ屋」と呼ばれる人たちでした。最初のうちはハンカチ屋は製造業者というより、いわゆる売込商であり、外国商館からハンカチの受注を受けます。そのために、商館にいる日本人番頭と親しくなって仕事を貰うのです。仕事がきたらまず、スケッチ屋と呼ばれるデザイナーにスケッチを書かせます。そのために日ごろその国の嗜好の情報を仕入れておかなければなりません。スケッチを外国に送り、向こうでそれを検討して、戻ってきてはじめて正式発注になるわけです。受注したらハンカチ屋は原反を仕入れ、それを捺染業者に渡して染色してもらいます。スケッチから実際の型を作るのは型彫屋と呼ばれる職人で、ハンカチ屋から発注されました。染色し終わった織物は裁断、縫製を行います。縫製業者からは縁かがりの仕事が家庭内職に行きます。このようにハンカチ屋を中心にさまざまな業種の人の分業によってスカーフが完成するのです。この流れは明治の時代から現在でも大きくは変わっていません。地域としては外国商館は山下町のあたり、ハンカチ屋は今の関内駅の北側、捺染業者は大岡川や帷子川沿いにあり、その周囲に加工の内職者がいました。

 この流れでわかるように、横浜で行われているのは、生糸そのものやそれを織物にする過程ではなく、製織されたものを製品に加工する産業です。その中ではさまざまなデザインに染める捺染が中心になります。それでは染め方の歴史を見ていきましょう。捺染とは、要するに布に染料で図柄や模様を印刷することですが、紙の印刷と同じようにいろいろな方法が使われてきました。捺染は木版、紙型を経て現在はスクリーン捺染になっています。

 最初に行われたのは木版捺染でした。これは紙に印刷する木版を応用したものです。開港当時は茶の輸出も盛んでしたが、茶箱のラベルは木版を使って刷られており、その刷師がハンカチも刷ったということです。まず、「版木屋」が桜の木を使い木版を彫ります。生地はあらかじめ正方形に切っておきます。これを厚手の洋紙にロウを塗った台紙に貼りつけ、木版に染料液をハケで塗り、この上に生地を貼った台紙を載せ、バレンという道具でこすります。刷る人は「木版屋」と呼ばれています。この後、生地をセイロで蒸して完成です。本来はこの後に水洗すると色落ちがしないのですが、既にハンカチの大きさに切ってあるため、川で水洗することができず、色落ちしやすいのが欠点でした。半面、表現能力が高く、精密な図柄を作ることが出来ました。木版は昭和20年代まで行われていました。

 木版がいわゆる凸版印刷なのに対して、紙型を使い、穴をあけた部分だけ印刷する、孔版印刷も行われました。孔版では数字の0のような柄を彫ると、中の部分が抜け落ちてしまいます。それを防ぐために図柄を2枚の型紙で作るという方法がとられました。これは追っかけ彫りと呼ばれています。型紙に使われたのは和紙に柿渋を塗って貼り合わせてから燻した渋紙で、これを小刀で切りぬいて型を作り、その後でうるしを塗って補強します。木版と違い長尺の物が出来るので、水洗いにより、色落ちを防ぐことが出来ました。

 昭和初期から、木版や紙型に代わって、スクリーン印刷の技術が導入されました。型紙にはパラフィン紙にラックスニスを塗ったラックペーパーと言うものを使いました。紙型同様ラックペーパーを直接彫り、その後、スクリーンの上にロウで固定し、アイロンで熱を加えることで、ラックペーパーをスクリーンに貼りつけ、型にします。戦後になると、彫る代わりに、感光製版が行われるようになりました。最初のうちは輪郭の細かいところのみ感光製版を使い、それ以外のところは直接彫っていましたが、やがてすべて感光製版を行うようになりました。これにより彫師の作業は文字通り「彫る」ことから、トレースの作業に移り変わったのです。現在でも基本的な方法は同じですが、機械の自動化が進んでいます。

 最後にスカーフと山下公園の意外なつながりを一つ。山下公園の入り口にインドの水塔があります。これは関東大震災の時の暖かい扱いに感謝して横浜インド商組合から横浜市に昭和12年に寄贈されたものです。そのころ横浜でインドの人が何をやっていたのか以前から不思議に思っていましたが、実はスカーフと関係があったのです。関東大震災で壊滅的な被害を被った横浜から、絹織物や染色の業者のみならず外国の商館も神戸に避難していきました。当時横浜港の絹織物の輸出の3割はインドの商館が扱っており、これを横浜に復帰してもらうことが横浜の絹織物にとって必要なことでした。そのために、住宅や店舗を建設して神戸からの復帰を誘致しました。翌年には16社が横浜に帰ってきましたが、この時の扱いに感謝してインドの商組合から横浜に贈られたのがこの水塔というわけです。

スカーフの中に、開港からの歴史が見える・・と言ったらオーバーかも知れませんが、伝統的な産業、横浜のスカーフをこれからも応援していきたいものです。

参考文献
  ギルダ横濱スカーフ:横浜捺染120年の歩み
  横浜市勤労福祉財団編:特別展 横浜スカーフ


←前へ 次へ→ 目次へ↑

(c) 2003 Masanori Kono