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横浜ちょっと昔のちょっといい話

横浜の六大事業

2000年11月25日

 どの時代でも、どんな組織でも、事業計画ってありますね。5か年計画とか、基幹計画とか。大抵5か年計画と言っても全てが実現されるわけではなく、計画倒れに終ることも多いのですが。

 昭和40年と言えば、今から35年前ですが、その正月に当時の飛鳥田横浜市長が提案したのが横浜の六大事業です。その後、この計画は基幹事業と名前を変えましたが、横浜の事業のグランドデザインとしては大変優れていて、それは現在でも色褪せていません。都市計画は実現するのには大変な時間が掛かります。当時の六大事業はすぐに実現されたものもありますが、21世紀の夢のような話もありました。今どうなっているのでしょうか。

 六大事業とは(1)都心部強化、(2)金沢地先埋め立て、(3)港北ニュータウン、(4)高速道路、(5)高速鉄道(地下鉄)、(6)ベイブリッジです。漠然としたテーマもありますが、昭和40年から、まちづくりとして何を行うべきかを示したものです。当時は、市の広報などでも、繰り返し告知されましたし、学校でも教えてくれたような気がします。それではおのおのについて見て見ましょう。

 都心部強化というタイトルはわかりにくいですが、その中心事業としてあったのは、今のみなとみらい21計画です。(当時はもちろんそんな言葉はありませんでした)横浜駅は昭和30年代の後半から高島屋ができたりして、ターミナルの体裁を整えてきました。また、関内、野毛、伊勢佐木町はもともとの横浜の繁華街、官庁街でした。距離から言えばわずか数Kmですが、その2つの地区のつながりはありませんでした。この2つの地区をつなげる事により、より魅力ある町になるのですが、そのためにはその間にあるものが問題でした。間にあるもの・・・それは造船所です。横浜や桜木町の駅からわずかの距離で船を作っていたのです。この造船所に移転してもらい、その跡地で横浜と関内をつなげるまちづくりを行うことが、この都心部強化ということです。そうは言っても、そんなに簡単に移転を計画できるわけではありません。また、移転先も問題です。長い交渉の結果、昭和51年に移転の基本協定が調印、実際にはそれから数年後に再開発は始まりました。みなとみらい21という計画名称は昭和56年にできました。ここまでで計画から15年以上。しかも、これはスタートであり、今でもまちづくりはつづいています。

 金沢地先埋め立ては、それまでの埋め立てとは目的が異なっていました。それまでは埋め立てにより土地を作り、それを大企業に売って産業振興を行うという単純なものでしたが、この埋め立てでは、都心部強化の造船所の移転先としての意味、住宅供給の意味があります。また、横浜市内には住宅地の中に小さな町工場があったので、それを工業団地としてここに移転する目的もありました。また、海の公園としての埋め立て機能もあります。これも計画発表後、昭和42年から漁業交渉を行い、順次工事を進めていました。昭和63年に埋め立ての竣工式が行われましたが、その後も整備が続けられました。シーサイドラインの開通が平成元年、八景島が平成5年にオープンしました。並木という新しい町ができ、八景島というレジャー施設ができました。海の公園により、花火大会やどんど焼きなどの市民の行事が盛んに行われるようになりました。

 港北ニュータウンもまだ完成の形ではありません。このニュータウンは単にトップダウンに宅地造成を行ったのではなく、放っておけば乱開発されてしまう地域を計画性を持って住宅地にしました。しかも、最初から市街化調整地域、つまり住宅開発しない地域を多く残しておいたのです、現在でも港北ニュータウンの近くでは畑がありますが、これは当初からのコンセプトによるものです。まだ完成された町ではないにしろ、計画から30年たって、落ち着いてきた感じがします。

 高速道路、高速鉄道は、何もここで謳わなくても、必然的にまちづくりには必要なものです。計画当初では地下鉄は4路線あったのですが、その後の状況の変化により、横浜の地下鉄は非常に長い路線が1本だけという事になりました。関内から北を3号線、南は1号線なのですが、関内駅から3号線が伸びる事も、2号線や4号線が横浜市営地下鉄として作られる事もなくなってしまいました。その代わり、東横線と接続されるみなとみらい新線に当時の計画の面影を見る事ができます。多くの高速道路もできました。おそらく六大事業が計画された時、30年後にこれだけ車の時代になるとは予想していなかったでしょう。横浜の中心部の高速道路は一部地下になっており、高速道路で町が分断される事を極力避けています。

 六大事業に唐突に具体的に入っているのがベイブリッジです。この計画を聞いた時、ベイブリッジというのがイメージがわきませんでした。当時、本牧ふ頭などに着いた貨物をトラックで運ぶのに横浜の中心部を通らざるを得なかったので、それをバイパスするための道路がベイブリッジです。なら、港湾バイパス線の建設とかの計画にしてもよさそうですが、ここは絶対「ベイブリッジ」で無ければいけなかったのです。六大事業の中で一番のアイデンティティーのある事業でしょう。ベイブリッジ完成後、確かに横浜の大きな顔になりました。昭和40年には夢だった橋が現実になったのです。

 30年以上前に発表された六大事業がほとんどその位置づけの通りに実現されつつあることから、この計画がいかに先見性のある計画だったかということがわかります。これからのまちづくりは単にハードウエアを作るだけでなく、その中でどのように共生していくかというテーマが重要になると思いますが、六大事業により、横浜はみらいに繋がる大きなインフラを得たような気がします。

参考文献;田村明「都市ヨコハマ物語」


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(c) 2003 Masanori Kono