←前へ 次へ→ 目次へ↑

横浜ちょっと昔のちょっといい話

開港の頃

2002年5月25日

 まもなく開港記念日ですね。小学校の頃は平日なのに学校が休みになって何か得した気分でした。最近は皆でディズニーランドに行く日になっているという感もありますが・・・。今日は開港記念日にちなんで、横浜の開港についてお話しましょう。

 ペリーがはじめて日本にきたのは1853年6月の事です。このときはアメリカ大統領の国書を幕府に渡すことが目的で、横須賀の久里浜に上陸しました。久里浜には今でもペリー上陸の碑があります。翌年1月、再び黒船でやってきたペリーは、前年の国書の回答を受けるために上陸しようとしましたが、前年の久里浜を主張する幕府に対して、もっと江戸に近い場所を主張し、結局横浜村に降り立つことになりました。この頃の横浜村は神奈川の宿からは対岸にある、小さな漁村でした。このときにペリーが上陸した場所が今の開港広場のあたりです。まだ横浜が開港する5年も前のことでした。この時に結ばれた日米和親条約の後、日米修好通商条約が1858年に結ばれ、この条約により、長崎や函館とともに神奈川の開港が決定されたのです。条約では開港の日は翌1859年の7月4日としました。なぜ7月4日か?これはアメリカの独立記念日の日に合わせたのです。通商条約はアメリカの他、イギリス、フランス、オランダ、ロシアとも結びましたが、ロシア、イギリスとの条約では開港日をきりが良い7月1日にしてあります。結局各国の条約のうち、一番有利なものが有効であるため、これらすべての国に対して7月1日開港が決まりました。この7月1日は、当時日本が使用していた太陰暦では6月2日になります。

 ペリーがはじめて日本にきたのは1853年6月の事です。このときはアメリカ大統領の国書を幕府に渡すことが目的で、横須賀の久里浜に上陸しました。久里浜には今でもペリー上陸の碑があります。翌年1月、再び黒船でやってきたペリーは、前年の国書の回答を受けるために上陸しようとしましたが、前年の久里浜を主張する幕府に対して、もっと江戸に近い場所を主張し、結局横浜村に降り立つことになりました。この頃の横浜村は神奈川の宿からは対岸にある、小さな漁村でした。このときにペリーが上陸した場所が今の開港広場のあたりです。まだ横浜が開港する5年も前のことでした。この時に結ばれた日米和親条約の後、日米修好通商条約が1858年に結ばれ、この条約により、長崎や函館とともに神奈川の開港が決定されたのです。条約では開港の日は翌1859年の7月4日としました。なぜ7月4日か?これはアメリカの独立記念日の日に合わせたのです。通商条約はアメリカの他、イギリス、フランス、オランダ、ロシアとも結びましたが、ロシア、イギリスとの条約では開港日をきりが良い7月1日にしてあります。結局各国の条約のうち、一番有利なものが有効であるため、これらすべての国に対して7月1日開港が決まりました。この7月1日は、当時日本が使用していた太陰暦では6月2日になります。

 さて、通商条約では開港する町は神奈川ということになっています。神奈川は今の東神奈川駅から京急神奈川駅あたり、横浜駅からちょっと北側です。神奈川宿は当時も大きな町で、幕府としては日本人でにぎわうこんなところに外国人をあまり入れたくありませんでした。また、実際に土地が狭く、新たな開発をするのも大変なようでした。そこで、幕府は開港場所を横浜村にすることにしました。ここなら、神奈川の宿からはちょうど今の横浜駅あたりの湾を隔てた反対側になるので、日本の社会に外国人が入ってくることもなさそうです。うまくいけば長崎の出島のような管理ができるかもしれません。この計画が立てられたのはすでに通商条約の締結からずいぶん経った翌年3月のこと。約束した開港の日までもう3か月しかありません。それでも、既成事実を作るためにはそこに町がなければなりません。大急ぎで町を作りました。もともと何も無かった土地なので、計画を立てて街路を作り、そこに建物を建てて行きます。中央に桟橋を作り、そこから東側に外国人の商館や居留地、西側が日本人の町としました。この区域は川で囲まれており、港の関係者を他の地域から分離することができます。新たに町を作るのに、もとから横浜村に住んでいた住民は集団移転しました。移った場所は今の元町付近です。神奈川奉行所は現在の県立図書館付近に作られました。これは港から少しはなれた場所ですが、港が見渡せるのと、何かあったときの司令塔は離れていたほうが良いということからでしょう。ただし、今の税関のような役目の運上所は桟橋の近く、今の県庁のところに作られました。

 港の場所に気がついた外国から「約束が違う」と言われても「横浜も神奈川の一部であり、船の安全を考えるとここに港を作るのが一番良い」と言って、横浜に港を作ることを譲りませんでした。このようにして準備していよいよ6月2日を迎えるわけです。「開港」と言っても開港式典があったわけではなく、港としての業務がその日から始まったということで、実際には前日にアメリカのワンダラー号が入港第一号として上海から到着していましたが、手続きは6月2日に行われました。3日後にアメリカの領事館では星条旗が飾られましたが、どうやら開港を祝ってではなく、アメリカの独立記念日を祝ってのもののようです。

 外国人の居留地は中央に近いところから1番、2番と番地がつけられました。1番にはイギリスの商社であるマセソン商会。1番のところのイギリスの商館なので英一番館と呼ばれました。今のシルクセンターのあたりです。

 ところで桟橋はどこにあったのでしょうか。開港した頃の桟橋は今の大桟橋の位置と、その西側の2本ありました。今の大桟橋に比べれば大変小さな桟橋で、最初にできた大桟橋のところのものがイギリス波止場、その西側にできたのが国内貨物を扱う税関波止場です。イギリス波止場は、後に波から守るため左にカーブした独特の形になりましたが、これは象の鼻と呼ばれました。最近出来た開港の道・山下臨港線プロムナードを通ると大桟橋の左側にこの桟橋を見ることが出来ますが、基本的に当時の形そのままです。その後1864年には今のホテルニューグランドの前あたりの海にさらに小さな2つの波止場ができました。こちらはフランス波止場と呼ばれました。昔は海岸通が文字通り海岸線だったのですが、関東大震災の後の瓦礫を埋め立てて山下公園ができて、海岸線が少し先にのびてしまいました。そのためにフランス波止場は今では見ることが出来ません。これらの波止場は、当時の船に比べてもとても小さいものだったので、直接商船が波止場に接岸したのではありません。はしけが荷物を運んだのです。

 ところで、面白いのは、外国の役人と商人の対応の違いです。役人としてはあくまで開国は大きな町である神奈川でなければならなかったので、ずいぶん日本に抗議したようです。開港に備えて在日領事館も神奈川宿の近辺に作られました。寺院に置かれたものが多かったようで、例えばアメリカ領事館は本覚寺、イギリス領事館は浄滝寺におかれました。結局外国からの抗議により、子安付近も外国人が居留しても良いことになりました。ところが商人にとっては、自分たちが商売できるところであれば、条約で約束した場所には特にこだわりません。商売できるための条件としては自分たちの商社をつくることができ、貿易の相手の日本の商店が近くにあり、港が安全であることですが、神奈川より横浜の方が優れていました。神奈川沖は浅瀬ですが、横浜の港は湾が深く船には好都合ですし、幕府が江戸から大商人を誘致して商売が出来るようにしたためです。開港の時点ではすでに70人もの日本人商人が日本人町に店を構えました。そのために、横浜の港は栄え、最初神奈川に置かれた各国の領事館も横浜の町に置かれるようになりました。今までの宿場町としての神奈川より、はるかに新しい文化が根付いたのが横浜の町だったのでしょう。

 最初に3ヶ月で町を作り開港を迎えた後も、日本人と外国人がいる新しい町が急速に整備されてきました。横浜が「市制記念日」ではなく「開港記念日」を祝っているのは、「横浜」という新しい町が生まれたのが、まさに開港によってだからです。横浜の誕生日と言える開港記念日、いろいろな催しもあるようですが、あなたはどのように過ごすのでしょうか。

参考文献:
小田貞夫「横浜史を歩く」日本放送出版協会
横浜市教育委員会編「横浜の歴史 中学生用」
横浜開港資料館編「横浜もののはじめ考」

追記

2004年4月18日

「象の鼻」地区は横浜市が公園に整備する計画があるようです。

アルバム

開港広場 開港広場
(1999年9月1日撮影)
象の鼻 大桟橋の手前に伸びているのが「象の鼻」です。
(2003年5月1日撮影)

←前へ 次へ→ 目次へ↑

(c) 2003 Masanori Kono