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横浜ちょっと昔のちょっといい話

できたばかりの根岸線

2002年9月28日

 以前の横浜 Bay Side 通信でしゅんさんが小田和正さんの「自己ベスト」の話題を書いています。このアルバムの中の"My home town"という曲には小田さんが過ごした横浜の風景がでてきますが、「できたばかりの根岸線」というフレーズがあります。当時小田さんは山手にある学校に通っていたのですが、根岸線が出来た時は高校2年生くらいだったのでしょうか。それまでは、桜木町から先は電車が走っていませんでした。桜木町から磯子までの線路が開通し、横浜・磯子間が根岸線となったわけです。今日は、根岸線の話をしましょう。

 根岸線は昭和39年、東京オリンピックの開催の年に開通しました。それまで、横浜の中心部はバスや市電しか交通の足が無かったのが、新しく国電が開通し、東京方面まで直通電車が走るようになったのです。

 磯子駅は根岸線の終点の駅でした。1本の長いホームや小さな橋上駅は開業当時から変わっていません。最近はエスカレータもできましたが、改札口を出て左側に降りる階段は最初からそのままです。この駅は埋立地に出来ています。駅前を国道16号線が走っていますが、埋め立ての前までは線路のあたりは海でした。埋め立てで産業道路と根岸線ができたのです。住宅や商店は国道沿いにあるので、路線バスは産業道路ではなく国道を走っていました。当時は金沢方面から横浜駅までの国道16号を通る直通路線バスが走っていたのですが、磯子駅が出来てからはその付近だけ、国道から離れて磯子駅前に乗り入れ、またすぐに国道に戻るルートを通っていました。磯子駅のバスターミナルは今とは向きが違い、道路に直角に3本の島があったのを覚えています。また、このころはまだ市電が杉田まで通っていましたが、さすがに市電の路線は変更できず、磯子駅前に乗り入れることなく数年後には廃止になっています。当時は水色の電車ではなく、チョコレート色の旧型国電でした。

 根岸駅も埋立地にありました。駅前の日本石油の工場からタンク車が運ばれているのは今でも変わらない風景です。根岸線は通勤路線だと考えていると、時々タンク車や本牧の埠頭からのコンテナ車などの貨物列車が通るので、知らない人が見ると驚きますね。この駅もずっと変わらなかったのですが、最近エレベータ、エスカレータ工事で駅舎も作り直しているようです。根岸から新杉田にかけては、線路から海側が工場地帯、陸側が古い住宅地でしたが、最近海側に首都高速ができ、電車からの風景が大きく変わってしまいました。根岸駅は根岸線の中では特徴の少ない駅ですが、一番の特徴はこの駅名が路線の名前になっているということでしょう。このあたりは明治時代の外国人居留地からの散策コースとして有名な土地でした。根岸線がもう少し本牧の方を通っていたら本牧線という名前になっていたかもしれません。この路線では、山手の丘が一番横浜らしいところなので、山手線でもいいのですが、東京に有名な環状線があるので、そういうわけにもいきませんね。

 根岸を出ると電車は高台に上がり、本牧に行く道路をまたぐとトンネルです。そして、山手駅に到着です。この駅の付近は根岸線の中でも一番と言ってよいほど昔の面影を残しています。磯子や根岸駅のように何も無かったところに駅や街を作ったのではなく、静かな住宅地の中に出来た駅です。山手駅は「広告の無い駅」で有名でした。ホームや階段に良くある看板が一切ありませんでした。学校が点在する文教地区の駅として商業広告なしのすっきりとした駅を作ったのです。今では多少の看板はありますが、それでも最低限のもので、非常に清楚な感じのする駅です。電車を降りるとホームの外の手の届くところに住宅があります。ホームには風除けの大きな屋根や壁がなく、小さな柵があるだけだし、そもそも下りホームの前の方から降りると屋根がないので、雨の日は濡れてしまいます。駅前にも細い道路が何本かあるだけです。目の前の小学校の前の道が以前に比べて少し広くなったような気がしますが、大きなバスターミナルがあるわけではなく、いまどき私鉄の駅前でもこれだけ何も無いところはめずらしいのではないでしょうか。しかも周りが丘に囲まれていて、駅の前後にもトンネルがあるので、数分歩くと、もう駅の姿が見えなくなってしまう埋もれた駅です。久しぶりに山手駅に降りてみましたが、とても懐かしい感じのする駅です。山手から根岸にかけて、以前はしゃれた住宅が多かったのですが、最近はマンションに変わっています。ユーミンの「海を見ていた午後」で有名な根岸のドルフィンの前にもマンションが建ち、わずかですが、海の風景が欠けてしまいました。

 石川町駅から桜木町にかけては開業当時と風景は大きく変わってしまいました。周りに大きなビルが建ったこともありますが、川の埋め立てと高速道路の開通が景観を一変させたのです。開業当時は桜木町から石川町までは川の上を通っていました。その川が高速道路になってしまい、また、石川町駅をまたいでいる川の上にも高速道路が出来てしまいました。関内駅から西のほうには地下鉄の開通とともに大通り公園が出来ていますが、これももとは川でした。駅はきれいになったり、エスカレーターが出来たりしても、長いホームの両方に出口のあるつくりは、石川町駅も関内駅も30年以上変わっていません。両方の駅とも単純に「北口」「南口」という出口だったのですが、わかりにくいために石川町は最近「中華街口」「元町口」という名前に変わりました。

 根岸線は当初から磯子を経由して大船までの路線が計画されていました。その頃の地図を見ると、磯子から先の計画路線に「桜大線(おうだいせん)」と書いてあるものがあります。これは桜木町から大船まで全通したときの路線名の仮称でした。結局根岸線の名称のまま、昭和45年の洋光台までの部分延長を経て昭和48年春に大船まで全通することになります。

 新杉田は磯子と同じ性格で、海側に工場、陸側は昔からの住宅地です。また、金沢方面の工業団地への足としてのバスもここから出ています。あまり特徴が無く、階段を上って改札口に行っても高い位置にあるホームまで更に階段を上っていかなければならない駅だったのですが、昭和63年には駅の中に商店街ができ、翌平成元年にはシーサイドライン開通で、乗換の駅になりました。八景島シーパラダイス、ベイサイドマリーナなどの開業により、金沢方面への観光の乗換拠点にもなりました。

 洋光台、港南台、本郷台と、まるで私鉄のニュータウンのような○○台と言う駅名が続きます。洋光台、港南台は駅とともに、駅の近くに大きな集合住宅が作られ横浜や東京に通う人のベットタウンとしての役割を持ったのです。線路を作る前は本当に何も無い、山の中の場所でした。

 大船駅まで根岸線がきた頃、私は通学で大船駅を利用していましたが、何もないところにホームが出来、電車が通るようになったのをちょっと不思議な感覚で見ていました。普段の通学路は違うのですが、たまに根岸線を使って帰ったこともあったっけ。

 根岸線の昔と今を駆け足で見てきました。海のそばを走る根岸線はブルーの色がよく似合ったのですが、最近は銀色の電車になってしまいました。でもブルーの帯を巻いて、今でもさわやかに根岸線は走っていきます。


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(c) 2003 Masanori Kono